かつらぎ町の見所
院の墓
院の墓と伝えられていますが、鳥羽天皇の皇后の
侍賢門院(たいけんもんいん)の墓ではなく、
院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。
「山家集」には中納言の局が侍賢門院の喪に
服した後、京都の小倉の住まいを捨て
天野に移り住んだと記されており、久安五年
(1149年)の頃と推定されます。
この地に庵を結び入寂した後、天野の里人が
葬ったのがこの墓といわれています。 ここのすぐ
下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の
局が高野山への道、八町坂に面したここに
住まいを持ったのも当然といえます。