横笛の、病のとこに、滝口入道から送られてきた和歌は、

高野山 名をだに知らで 過ぎぬべし   うきよよそなる わが身なりせば
と、やさしくこたえた。

伊都郡かつらぎ町天野の里

歴史ロマンと信仰の里

                                                          そるとても  なにかうらみん  あずさ弓    引きとどむべき  心ならねば
横笛は、この和歌を受けて、
天野 横笛の恋塚
それにこたえて横笛は、
かつらぎ町天野 西行堂
西行堂
西行法師は、本の名を佐藤義清(さとうのりきよ)という
武士でした。出家して後、妻も尼となり天野に住んだのが、
康治元年(1142年)の頃です。この地に庵を立て読経(どきょう)
の生活をおくりましたが、娘も京都より15歳ばかりにて高野の
麓の天野と聞いただけのひとり旅 やっと天野に辿り着き、
母娘ともに天野の里で尼となり、この地で母娘ともに生涯を
終えました。 西行堂の下3m程の所に、里人が花を
供え守り続けてきた妻娘(さいし)の塚があります。
西行堂は、西行・妻娘をしのんで建てられ古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされます。天野の里人は堂の再建を
繰り返し、平安時代末期より守り続けてきました。
お堂は、昭和六十一年に場所を移して再建されました。

   
なく虫の 草にやつれて いく秋か
           あまのに残る 露のやどりぞ

江戸時代の西行研究家「似雲」が天野をたずね庵を見て
詠んだ歌です。
かつらぎ町観光協会
 
平家に仕えた名門武士、斉藤時頼(滝口入道)
雑仕横笛(ぞうしよこぶえ)と恋におちたが、
実らぬ恋と悟って時頼は出家し、嵯峨の往生院に入った。
後に高野山で多門坊淨阿(たもんぼうじょうあ)と称し、
仏門修行の毎日を送りました。 横笛も跡を追い、奈良の
法華寺で生涯を終えたとか、桂川に諸説はがありますが、
治承三年(1179年)高野山に入った時頼のあとを慕い
ここに庵を結び、恋しい人にあうこともなく十九歳で病の為に亡くなったと伝えられています。里人により庵のそばに葬られた
という塚、それが横笛の恋塚です。その後、多くの女性から
供養されたのか古びた五輪が積み重ねられ苔むしています。
かつらぎ町今むかし話
横笛の物語は
こちらから
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西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうさいしほうきょういんとう)、鬼王・団三郎の墓
この和歌のとおりになくなった横笛は、一羽のうぐいすとなって高野山大円院の梅の木に
止まり、しばらくうつくしい声でさえずっていた。やがてよわよわしく二、三度はばたくと、
庭の井戸に落ちて水にしずんだ。 はっと夢から覚めた入道は、井戸からうぐいすをすくい
上げ、変わりはてた横笛の姿に無念の涙をながした ……
天野歴史文化保存会
谷口正信会長 (著)
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で
和歌山県の文化財に指定されています。

向かって右より二基は応安五年(1372年)建立され、
左二基は文安六年(1449年)に建立されました。
西行妻娘宝篋印塔の裏側にある数多くの五輪は、
曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。二人の
郎党は、主人の遺骨を高野山に納めたのち天野のこの地で
生涯を終えたと伝えられています。

民家の裏に横笛の恋塚があります

恋塚へつづく道は、季節の花が咲いています
藪椿がひっそりと咲いていました
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かつらぎ町観光協会
 
そるまでは  うらみしかども  あずさ弓       まことの道に  入るぞうれしき
やおや君 死すればのぼる 高野山  恋もぼだいの たねとこそなれ
と、今もかわらぬ思いを伝えた。
かつらぎ町天野 横笛の恋塚
かつらぎ町天野 横笛の恋塚
かつらぎ町天野 横笛の恋塚
高野山大円寺
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西行堂の下、妻娘の塚があります
お堂の中には、西行法師像が
祀られています
西行堂から見る天野の風景
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かつらぎ町天野 西行妻娘印塔
かつらぎ町天野 鬼王壇三郎の墓
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横笛の恋塚
「かつらぎ町今むかし話」によると……
たまたま天野を通った僧から、横笛の話を聞いた
滝口入道は心のあかしの和歌を横笛におくった。
かつらぎ町天野 横笛の恋塚
高野山 大円寺
高野山 大円寺
高野山 大円寺
かつらぎ町天野 西行堂
かつらぎ町天野 西行堂
かつらぎ町天野 西行堂
天野 西行堂

西行堂についての
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